歴史

岩手県最初のゴルフ倶楽部

岩手県最初のゴルフ倶楽部

岩手ゴルフ倶楽部は、岩手県で最初に設立されたゴルフ倶楽部である。昭和12年6月に創立され、すでに75年をこえる歴史をもつ。

現在わが国には2400余のコースがあるが、戦前のゴルフ最盛期といわれる昭和11年、JGA(日本ゴルフ協会)加盟倶楽部はわずかに34あったのみであり、当倶楽部はその名誉ある伝統を受け継ぐ倶楽部である。

名門コースの技術とマナーを継承

当倶楽部の草創期のリーダーは、東京ゴルフ倶楽部や霞ヶ関カンツリー倶楽部、学士会ゴルフ倶楽部等の、日本を代表する名門コースで技術とマナーを学んだ人々である。

 

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特筆すべきは花巻コースの建設以降、倶楽部の指導者として大きな功績を残した南部利英氏の存在だ。氏は昭和7年に東京ゴルフ倶楽部に入会し、そこでゴルフの精神と技術を学んだ。その南部利英氏が当倶楽部でプレーするようになったことによって、技術やマナー等ゴルフ全般のレベルが上がり、岩手県におけるゴルフの健全な発展がもたらされたと考えられる。

草創期の会員の多くは、当倶楽部の創設とともにゴルフを始めた人々だが、指導者のもと、技術もさることながら、健康の維持や親睦に重点をおき、厳しいマナーを守りながらプレーを楽しんだ。

岩手ゴルフ倶楽部の創立

歴史 岩手県におけるゴルフの始まりは、昭和8年12月10日、盛岡市郊外の丘陵地1万5千坪を切り開いて完成した左京長根のゴルフリンクスだと言われている。
だがそれは、野原でゴルフボールを打つだけの素朴なものであった。
歴史 昭和11年6月、県の総務部長として、学士会のハンディ9という腕前の柳井義男が着任した。その柳井が左京長根のゴルフリンクスで打ち放しの練習を重ねるうちに、ゴルフコースを造ろうという話が持ち上がり、柳井総務部長、坂井賛次郎岩手殖産銀行頭取、毛里凱児勧銀盛岡主事(後盛岡支店長)等が中心になってゴルフ倶楽部を創設することになる。 歴史
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コースは大掛かりな土木工事など一切やらずに、もっぱら天然自然の地形を考慮してホールの位置を決め、簡単なティを築き、芝は野生の芝をそのままに、フェアウェイは芝を短く刈り込み、グリーンは更に短く刈り込んだだけでバンカーもなし、という実に素朴なものではあったが、ついに昭和12年6月6日、渋民村生出野に全長3011ヤード・9ホールのゴルフコースが完成した。岩手県で最初となるゴルフ倶楽部の創立である。

花巻コースの建設

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渋民コース開場の翌月、昭和12年7月に盧溝橋事件が起こり日中戦争が始まると、日本全体が非常時の様相を見せるようになった。同年10月にはゴルフ用品の輸入が禁止され、翌13年4月には国家総動員法が公布された。国内ではゴルフだけでなく、スポーツを楽しむ余裕が失われていくようになる。昭和13年のガソリン統制によって、自動車で通う以外に方法のなかった生出野コースでプレーするのが困難になり、最終的には交通の便の良いところに新しくコースをつくる必要に迫られた。新コースの建設用地が決まり、コースの設計について相談したのが東京ゴルフ倶楽部ハンディ8の南部利英氏である。

南部氏は現地を視察し、大谷光明氏にコース設計を依頼する事にした。大谷氏は東京ゴルフ倶楽部の役員で、当時すでに名ゴルファー、名設計者として有名だった人物である。大谷氏から送られて来た設計図は、コースのレイアウト、グリーンのアンジュレーション、バンカーの位置と深さなどが詳細に指定されており、実に見事なものだった。しかし当時世の中は非常時であり、資金不足のために設計変更せざるを得なかった。こうして昭和14年初夏、全長1870ヤード、6ホール、パー23の第一次花巻コースが完成した。

受難時代 戦争とゴルフ

日中戦争が泥沼の状態に陥り、対米戦争の緊張が高まるにつれて、ゴルフへの風当たりもにわかに強くなっていった。外国語の使用が禁止され、クラブを打棒、ボールを球、ゴルフバッグを打棒袋というぐあいに日本調の呼び名に変えたり、男児キャディーが生産工場に転出して女子のキャディーにかわったのもこの時代である。昭和16年12月、太平洋戦争に突入すると全国のゴルフ場は軍に接収されたり、食料増産のために田圃に変えられた。岩手ゴルフ倶楽部は、太平洋戦争末期の昭和19年、県の命令により2番、3番、4番の3ホールを食料増産のための田圃とされてしまった。

花巻コースの再建

昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結し、多くのゴルフ場は進駐軍によって接収されていた。しかし戦時に接収した日本の軍部と違うのは、進駐軍にはゴルフ好きが多かったということだ。彼らは接収したゴルフ場を米軍兵士のレクリエーション施設として整備し、連日のようにプレーを楽しむようになった。岩手ゴルフ倶楽部では、花巻コースの建設に尽力した南部伯爵が倶楽部の第二代理事長に就任し、当時花巻温泉の社長として活躍した川村松助氏、盛岡市長二見直三氏、池野権治などが集まって倶楽部組織の再建に取りかかった。食料増産のため3ホールに縮小され、荒れ放題となっていた花巻コースも進駐軍の協力を得て整備し、プレーを再開するに至った。戦後の復興期に入って会員数も増加の一途をたどり、6ホールでは収容しきれない状況となったため、3ホールを拡張して9ホールにする計画を立てた。土地の買収にまつわる様々な問題があったものの、クラブ役員や委員の努力により、昭和31年、9ホールの花巻コースが完成した。

新山コースの建設

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昭和30年代半ばに起きたゴルフブームに伴い、当倶楽部においても会員の増加と技術の向上に対応できるような、新しいコースを望む声が高まった。しかし別の場所に新コースを建設しようにも土地問題がネックとなり計画が暗礁に乗り上げることとなる。そんな折り、紫波町長・村谷永一朗氏よりゴルフ場誘致の話が舞い込んだ。現在の紫波町新山高原である。

コースの設計は仙塩ゴルフクラブの支配人・野窪拓治氏に依頼した。野窪氏のゴルフ哲学は、ゴルフコースとは自然の地形を生かし、その土地が持っている個性を最大限に引き出すことである。それによって多少難しいコースになったとしても、それを征服するところがゴルフの楽しみであり、何度回っても決して飽きる事がない。それが良いコースの条件である。というものだった。

そして昭和37年、新山コース・9ホールが完成した。標高550メートルの眺めのいい新山山頂に誕生した新山コースは、雄大な山岳コースとして県内だけでなく、東北各地でも注目を浴びた。それに伴い会員も著しく増加し、ビジターも多数来場するようになった。新山コース開場から3年目の昭和39年、インコースの造成工事に着工し、翌40年、待望の18ホールズが完成した。

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